甲府を早朝に出発して2時間という空の旅の後、長崎空港に降り立ったのが午後12時45分であった。市内行きのシャトルバスを利用して市役所についたのが、出発してから8時間後である、九州の南まで「日本は長い」と言うのが第一印象だ。
人口445,000人、さすがに長崎は坂の町と言われるだけに自転車が少ない。中には自転車に乗れないと言う市民も数多いと言う話は一度この町にくればうなずける。
長崎市の都市景観行政は、次のような前文から始まっている。
参照ホームページを御覧戴くと、今回の視察内容がすべて網羅されているのには驚かされる。

ではこの町がなぜ現在のような坂道で続く町になったのかと言う素朴な疑問を投げかけてみた、すると「この市街地は段々畑だったのです」と言う答えだった。
リアス式の海岸線に沿って天然の良港であったこの場所が、国際貿易港となってゆくのも十分うなづけるし、それを背景として明治以降近代造船工業が発展してゆく過程の中では、結局はこの段々畑を宅地化するしか住宅地の開発は出来なかったのだろう。狭く階段が随所にあるこの町では自動車などは移動手段とは考えにくく、建物建築などでは現在でも「馬」を使って建材等を運んでいる姿を見かけるそうだ。

そんな中でこの町においては、延長113メートルの斜行エレベーターをこのような地区に設置し、且つこれがなんと「都市計画街路」と言う位置付けにまでなっているのだから驚きである。それに続く垂直エレベーターも当然「都市計画街路」であることは言うまでもない。「道路」と言うものが持つ本来の性質は何かと言う事に対する明確な回答がここに用意されていた。
斜行エレベーターに乗ると中にはシルバー人材センターからの派遣だという職員が乗っていた。定員一杯乗り込み途中のフロアに止まるとブザーが鳴ってしまった、するとその派遣職員はニコニコしながら「どうぞ」と言って自分が降りてしまった。もともとこのエレベーターは自動運転なのだが、何かあってはいけないと言う配慮からか、管理人と言うような形で乗っているのだろう。ドアが閉まる直前、外からニコニコしながら「いってらっしゃい」という言葉を残して何事も無かったように動き出した。これが「ウエルカムマインド」なのだろう。
その後垂直エレベーターに乗るとたぶん中学生だろうか中に乗っていた。「いつもこれかい」、「うん」「自転車じゃ無理だろう」と言うと「そんな事無いよ」、と強がって見せた。学校で先生に怒られた日や、前の日に親に怒られた日などはとぼとぼと坂を歩いてこのエレベーターに乗るんだろうなあ。でも大好きな子に声をかけられた日などは、きっと階段を走って上ってゆくに違いない。きっと息を切らして「ただいま」と言いながら家に飛び込んでゆくんだろうなあ、そんな日常を感じる事が出来たのであった。

せっかくの視察であり5地区全てを見たいのだが、時間的なことが問題となり、長崎市の中でも代表的なエリアである東山手・南山手地区景観形成地区を実際に歩いて視察する機会に恵まれた。その上長崎市議会事務局の方が同行していただき、実際に生活している市民の脇をすり抜けるようにしての視察であり、観光ガイドでは絶対に見る事の出来ないような貴重な町並みや、そこでの生活を見て回るチャンスにめぐり合えた事はお礼の仕様が無い。
あえてグラバー園へは立ち寄らず脇からその回りを下ってゆくと、国宝である大浦天主堂前に出る。そこは神社、教会、寺と3つに囲まれた場所があり、ここが世界都市長崎と言い切っても良い場所だと、妙に納得してしまった。

その後明治37年に作られた「旧香港上海銀行長崎支店」ビルは、どうしても私が見たかった場所で、平成2年に国指定の文化財として登録され、現在は復元工事の後一般に開放されている。
ここでの逸話は、長崎市が100周年記念事業をこの地で行おうとしたとき、この建物の解体に対し、市民から猛烈な反対運動が湧き上がり、結果として復元保存する事になったと言う話がある。
甲府市においても第2次世界大戦時の甲府空襲で、市内の76パーセントが破壊されてしまった事は実に情けないことだが、私が良く口にする「甲府という都市は破壊されつづけた都市」と言う事から、古いものに対する執着や愛情が希薄な気がする。ここ長崎市は原爆の投下と言う洗礼を受けながらも、入り組んだその地形が幸いして市内における破壊率は50パーセント程度だったそうである。その事がこれらの都市遺産を現代に伝えてくれているのだろう、これからも大切に保存していってほしい都市である。
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