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「ごみをいただきます」

第1章・甲府市におけるごみの歴史

第一次ごみ戦争

 甲府市史によると、市町村等自治体による塵芥処理は明治33年甲府の汚物掃除法と同施行規則(内務省令第5号)からであるとされている。この法律の施行原因となったのはたび重なる伝染病の発生や、明治32年10月に神戸市で発生し、大都市へ流行していったペストの脅威からであった。そうして集められた塵芥は焼却処理もしくは一定の場所で一定の方法(どのような方法かは不明である)による処理をすることとされている。

 この時代の甲府市の塵芥集積場は「桜町・三吉町・横近習町」の三ヶ所であったが、此処については早くから県より移転が則されておりこの法律の施行を機に市内六ヶ所に移されている。またこの時に清掃監督長以下職員等人員をおき、いわゆる現在の環境部がスタートしたことになっている。この事により延べ人夫2,543人を動員することとなり、市税を増税せざるを得なかったことが「第11回甲府市事務報告書」に記載されている。またこのときの回収した塵芥は42万貫(約1,575t)汚泥14万貫(525t)となっているが、これは近隣農家の経済状態に左右されていたものであった。つまり此処からの塵芥はすべて有償で農家が肥料として引き取っていたのである。

 その後これらの塵芥肥料も明治末には甲府駅につく荷物の1割は肥料であったと言われるように、金肥(化学肥料)にとってかわられることとなるのである。同時に市中人口の増加による塵芥増加と重なり、塵芥置場は溢れかえり、市民の健康に影響が出てくるようになってきたことから、甲府市では焼却処分場の建設に向けて動き出していったのである。

 もうひとつの問題は屎尿の処理であった。それまで近隣農家が牛車・馬車で集めにきていた屎尿は前出金肥の普及に伴い、次第に回収が滞るようになっていった。先ず第一段階として近隣農家は代金の支払いを拒み始め、当時の新聞によると「甲府市を糞尿攻めにせんとする計画」といわれるような無料化交渉が起こっていったのである。そうした中で甲府市は昭和3年腸チフスの大流行に見舞われた。患者数388人、死者43人というこの事態を重く捉え、屎尿の直営回収に乗り出すこととなってゆくのだか、以下で記載するようにこの計画も戦争と言う暗い影により中断・頓挫しながら進むこととなってしまうのである。

 以上のような中、甲府市におけるごみ集中処理場第一号は昭和3年完成をみた飯田第一塵芥焼却場(現在の飯田通りNHK入口交差点あたりである)であった。この施設の能力は2000貫(約0,75t)/1日であるが、その年の甲府市で収集した塵芥は1,724,000貫(約6.465t)あり、その処理不足部分は郊外での埋め立て処分に頼らざるを得なかった。その後は昭和12年の3,694,050貫(約13,853t)まで一貫して増加を続けるのだが、やはり対応できない部分は埋め立て処分が続いたのであった。つまり甲府市の当時の周辺部分はほとんどと言ってよいであろう、ごみで埋もれているのである。ただしこの頃の埋め立ては2m程度の深さに穴を掘りごみを投入すると言うものだが、そのごみ質はプラスチック類など合成樹脂製の塵芥類は含まれているはずもなく、現在の一般廃棄物とはかなり性格が違っている。当時の担当職員の手による記述書類には「元来埋没処理ハ非合法非衛生的ナル為・・・」と、その現状を大いに愁いている。しかしこの方法によって実に75%もの塵芥が処理されており、第二焼却場の完成を首を長くして待っていたのが市民であったのだろう。

 この頃の収集員の数は約30名の専従者で構成されており、収集の年間経費は13,000円〜20,000円であったそうである。第一焼却場が約20,000円で建設できていたのであるから、その場所の選定に対していかに困難さがあったのか推測できると言うものである。 昭和11年を迎え、念願の第二焼却場が伊勢町深渕にやっと完成し、この第一次ごみ戦争にも終止符が打たれることとなった。しかしこの翌年、昭和12年を境に市中の塵芥は次第に減少してゆくのである。その後昭和17年に至っては人口は市部に集中してきているものの塵芥排出量は2,355,320貫(約8,832t)であり、1人当りとしては昭和3年に対してわずか19%の増加にとどまり、物資の不足からくる市民生活の様子がうかがわれる。

下水道事始め

 一方衛生的な暮らしを求めて始められた下水道の計画は、昭和6年「下水道調査係」を置いたのが甲府市における下水道スタートである。以後昭和11年都市計画事業として設計を終了し、13年濁川改修工事と共に着工予定であったが、ここでも戦争の影がその工事を中断してしまった。その後昭和30年3月に起工式を行い、住吉本町での終末処理から始まり現在の大津最終処分場へと場所を移しながら、平成13年度中に現在の都市計画区域全域に対する工事を完了する運びとなっているのである。

 

戦時下のごみ

 昭和20年甲府大空襲前後の甲府のごみに対する文献・資料での記載はほとんどない。しかし推測するところ昭和17年以降20年まではいわゆる軍事供出が相次ぎ、食料も増産がひたすら叫ばれ、枯渇する物資を有効に利用することで、殆んどごみとしては排出されなかった。また甲府空襲以後は昭和19年123,922人、昭和20年11月82,515人と市内人口も激減しており、当然廃棄物の量もそれに伴う減少があったと思われる。焼失した家屋などの再建のため、ありとあらゆる資材が再利用されたことだろうし、建材として使用に耐えないものでも越冬のための燃料であるとか、日常の燃料として徹底的に利用され尽くしたと見るのが正しいのではないだろうか。市中人口の数などから推測し、ある程度確保されていたであろう庭先での処理が一般的だったこと、一部瓦礫については市外などに排出した形跡がないことから、低地や湿地に投棄されたであろう。このような全市的な作業については行政職員が携わったはずであろうが記載として残されている資料はない。幸か不幸かこの頃の建造物は基本的に紙と木で作られており、再利用については誠に利用しやすかったに違いない。

第二次ごみ戦争

 ごみ戦争に終止符を打ったのが世界戦争であったという情けないような結末であったが、一旦は収束していた廃棄物との戦いも「消費は美徳なり」という言葉が流行語となってくる昭和30年代から40年代のいわゆる高度成長時代になると再びやってきた。昭和39年には一日のごみの排出量が55tであったにもかかわらず、その処理能力は22tでしかなかった。この事態に甲府市では38年から蓬沢、池田と続けて計画したものの、地元住民やPTAなどの猛烈な反対に会い、紆余曲折の挙句、住吉本町の下水終末処理場に併設する形で昭和40年に完成にこぎつけることが出来た。

 同時期に山宮町に計画したごみ処分場については、煙害等周辺住民の感情を少しでも和らげるべく、当時としては最新式であったが、実績のないプレス式ごみ処理施設を計画した。この処理方法はごみを1,4㎥の大きさに鉄板で囲みこんでしまう事により、内部でごみが化学変化をし「化石化」して無害なものになる。(当時の業者説明)これを鉄火石と呼び、埋め立てなどに利用できるとしたものであった。論議を尽くした結果、昭和43年8月に稼動を始めたこの施設であるが、昭和50年甲府市は機械の耐用年数が来たからという理由でこの施設を閉鎖している。しかしこの施設から出来てきた「鉄化石」なるものは、その製造当初から数々の問題を露呈していた。悪臭・浸出水による環境汚染・埋め立て現場からのメタンガスの発生など、一部市外地を含む20ヶ所で35,000個が処分されたのだが、すべての場所で何がしかの問題を発生させつづけてきたのだった。

 そうした中でも市中のごみ排出量は昭和42年29,125t、昭和47年35,179t、昭和50年40,067tと増加の一途をたどりつづけた。一方処理量は昭和45年に120t/1日であったが同年の発生量は130t/1日と、この時点で逆転してしまっていた。この結果処理しきれないごみについては湿田などに埋め立て処分するという旧時代に逆戻りしてしまった方法でしかなく、「甲府はごみに埋もれてしまうのでは」という新聞記事が年中紙面をにぎわしていた。この喫急の事態に甲府市は上町に新焼却工場の建設を計画したが、周辺の石和町からの猛烈な反対運動に一旦は白紙撤回することも考えた。しかしその後の交渉の結果、周辺対策事業を盛り込み、且つ助成金をも給付すると言う覚書を、時の田辺知事を調停者として締結し、昭和47年6月をもってこの第二次ごみ戦争の一旦終息を見るのであった。

第三次ごみ戦争

 いよいよ豊な暮らしを始めると、人々はそれ以下あるいは以前の生活レベルには戻れなくなるものである。そして求める快適さは、時間に倍して増加してゆく。昭和50年と昭和60年とでは本市の人口は五万人という増加を見るのであるが、発生したごみの量は約2倍になってしまったのである。またこの時代にはその排出されるごみの質にも大きな変化が見られる。いわゆる「炉の大敵」であるプラスチック系のごみが大幅に増加し、焼却不適物が増加してゆくこととなる。時代は使い捨ての時代になり、それに伴うごみ発生量の急激な増加は焼却場にも、あるいは埋め立てていた場所にも深刻な影を落とし始めることとなる。従前では考えられなかった各種の環境汚染物質も科学技術の進歩と共に特定されてゆき、新たな公害問題として全国規模で発生してくる事となってきた。同時にごみを排出する市民段階でも分別すると言う意識がまだなく、すべてを同一のごみとして排出してしまう風潮であった。この事は昭和52年に行われた調査で、市民が出したごみの中には34%もの有価物が混入していると言う調査結果からも明らかとなっていた。

このため甲府市ではごみ減量対策として市内自治会に参加を呼びかけ、有価物の集団分別回収を始めることとなった。またその引き取り価格が元来不安定なため、昭和55年から報奨金制度を始めた。集団分別回収事業は現在では市内8割もの自治会が参加する事業となり、自治会によってはこの回収費を積み立てて自治会館の建設を行うなどの事業としている自治会もある。それでもガレキとして回収する物の中の60%が有価物であるという現状や、ごみ排出量から見ると30〜40%しかこのような分別回収協力が得られていないなど1990年代以降のごみの難しさが浮き彫りになって来ているのである。

最終処分場としての埋め立て場についても小曲町に設定したのが昭和61年であるが6年後の平成4年には満杯になってしまい、増坪町の最終処分場へと引き継がれたのち平成13年5月31日をもって地元との契約が終了し、以後平成15年西高橋町に完成予定の最終処分場を見るまでは全量県外排出に頼らざるを得ないのである。しかしこの新処分場についても6年間の使用契約となっており、結局甲府のごみの最終はどこに行くのか10年先は見えていないのである。

一方焼却場については平成7年増坪町に現有の環境センターの完成を見ることで一応の解決となっている。この施設は流動床式焼却炉と呼ばれ120t/1日×3炉の規模を誇り、各種排出される物性環境基準値も国の基準を下回っている最新と呼ばれる施設である。そこからは40t/1日の焼却残渣が発生しており、これは上記最終処分場にて処分されている。

2001年現在、甲府市においては前出有価物の回収を始めとし、法律の整備を待つことなく独自の施策としてプラスチックトレイの回収運動や牛乳パックの回収を通じてごみ減量化に取り組んでいる。また、地球的規模での環境を考えるべく「地球温暖化対策庁内連絡会」など独自の運動を展開し、限りある地球に対してやさしい環境都市づくりを進めているところである。 都市下水においては平成13年都市計画区域内完成を控え、次なる施設・区域の拡充を進めているところである。

以上この項「甲府市におけるごみの歴史」終わり

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