野中一二のページ | 活動 | 議会 | 街づくり | 環境 | 言いたい放題 | プロフィール | サイトマップ | 掲示板 | ホーム | 戻る

甲府の水道

甲府市長「加藤平四郎」の内務大臣への意見書

前記県知事への上申から1年を遡った明治41年(1908)、第4代甲府市市長加藤平四郎は、甲府市の上水道事業計画に反対する荒川沿岸村からの度重なる反対運動を受け、この件で内務大臣に向けて全文約7000字に及ぶ意見書を提出している。この要約については、昭和63年(1988)作成の「甲府市水道史」に、全文は昭和13年(1938)作成の「水道拡張誌」に掲載されている。この内容は、荒川から取水していた甲府用水に関わる歴史的背景が主であり、この意見書により、上水道計画を順調に進めていこうとするものである。 原文は文語体で書かれ、また、7000字にも及ぶものであるから、現代語に置き換えるには時間を要したが、本市の近代水道事業が始まる以前の、甲府用水に関する具体的使用形態についての記述も多いため、歴史的に見ても価値のあるものであると考え、全文を現代語訳することにした。
編注・この記事は、甲府市水道局企画経営課 内藤課長補佐により作成された原文によります。(野中一二)

要約(一つの視点としての水利権)

昭和63年(1988)の「甲府市水道史」に全文の要旨が述べられており、ほぼ内容については網羅されているが、これには掲載されていない「河川の水利権」に関して、一つの視点が述べられているので、これについての要約をしてみたい。

甲府市には荒川の水利権がないとする荒川対岸村の池田・敷島等の主張に対し、甲府市は、公領である河川の流水に対しての権利主張の根拠・理由付けとして、他の用水使用を禁止したり、制限したり、ある義務を負わせたりできるものがあるならば、それが、いずれの時代の、いずれの人から獲得したのかを、また契約よるものなのか、旧い慣習基づくものなのかの証明を求めるくだりがある。しかし、古来の関係書類を調べあげたところ、彼等は契約上または旧い慣習上においても、優越な権利を獲得していることは認められなかったとしている。

このことを理由に、甲府市は水利権について、一定の見解を示した。それは、甲府市は荒川流水の使用上については、権利を控えめに抑える必要もなく、また制限させられるようなこともないとし、また、一般の法理から論じれば、はじめて河川から取水を開始するような場合であっても、どのような場所から取水をしようとも、流末の他の各村に実害が及ばない限りは、何等問題はないという視点である。
この点に関しては、以前から法律論として裁判における判決例もあるとし、本市の荒川流水使用の歴史は、これに基づき古来より継続しながら、徐々に発達してきたものであるとした。

この視点・論理からすれば、水利権はこれを利用するものに等しく分配される権利であり、この水域からの実害が生じなければ、いついかなる時でもこの権利を取得できるとも解釈できる。このような主張がたとえ正論であったとしても、当時の世情はこれを認めず、その後における甲府市の近代水道の給水開始については、先に記したような厳しい歴史が待っていたのである。

編注・読者の便宜のために西暦を付記しました。(読みがな)は原文によります。文字の強調表示は編者によります。

内務大臣男爵平田東助殿
(沿岸関係村長及び村民代表よりの陳情書省略)
甲府市水道布設に関し荒川沿岸村民の苦情に対する意見書

本市水道の布設出願に対して、中巨摩郡松嶋村外荒川沿岸各村より異議の陳情が提出されたことを承りました。本市が水道布設という百年の大計を企てるに当って、これら沿岸の村民から反抗を受けることになりましたが、これは甚だ遺憾の次第であります。市は、もとより多大なる他の利害を無視してまで、自己の希望を満たそうとするものではなく、でき得る限り穏当な手段で円満に協定することを希望しておりました。しかし、これら異議者については、水道事業をある営利的事業と同一視するばかりでなく、甲府市には荒川の水利使用権がないため、彼等の要求を何事をも甘受しなければならないと主張しております。私たちは断乎これを拒否した上で、その是非曲直について争わなくてもすむための議論があるものと思い、既往の事歴等を有体(ありてい)に記述し、聊(いささ)か鄙見(ひけん)について以下に開陳したいと思います。

抑(そもそ)も甲府市の町用水は、往古より荒川から引き入れてきたことは、確然たる事実であり、これは百有余年前の旧記に始まり、明治維新前後における書類図面、もしくは古老の口碑に求めても明瞭であります。その水路は、荒川筋の字陣場から引入られ、甲府城郭内に通じているもので、古人はこれを「御廊(回廊)上水又は御町後用水」と称しておりました。

維新後、県庁所在地を甲府に定め、明治4年(1871)11月には山梨県と改称し、この頃から、本市の戸数人口は漸(ようやく)増加し始め、殖産工業などが日々開発の機運に向かっておりました。この間、陣場堰用水は、途中湯川又は相川と称する種々のものが混交する小川の汚水と合流しているため、到底飲用としては供給できない状況であり、別に清潔で良質な水を引く計画を立てることになりました。
県庁からの敦厚(とんこう)な勧めもあり、種々な調査の末に、当時山宮村外数ヶ村の共用水路を基にして、新規に適当な水路を開削することが便利であると認めました。明治8年(1875)3月中には本県の許可を得て工事を起工し、前後8ヶ月の日数と、凡そ1万余円の工費を投じて現在の一大水路を開削して市内に通水しました。この事業に対しては、当時県庁から格段の保護が与えられ、又山宮、羽黒、湯村、塩部等の関係村落においても少しも故障等はないばかりか、将来これらの諸村は、灌漑上の供給を受け、その他の利益も少なくないことを認識して大いにこれを歓迎しました。水路掘割のための潰し地に対しては、資力が乏しい数名の村民を除く外は、ほとんど全部について無償寄付を承認する等は別紙証憑書類の通りであり、工事中県庁から資金の「貸下げ」を受け、また掘削人夫として囚人の使役を許可し、かつまた水路沿岸各村においても非常な便宜を与えられました。

こうして同年9月に工事は竣工し、その際、お伺いを立てていた「上用水路看守規則」が定められ、かつ悪水、塵芥、汚物等を流し込んだり、あるいは漁猟を行って水路の妨害を行ったりすることを禁止するなどの発令が、県から縷々出されました。そればかりか、当初の通水に際しては、通過村落における途中の灌漑水は、その引入口に石材を使って水量を表示し、決してそれ以上の水を引き入れることが許されず、また爾来新たに灌漑用の樋口(ひぐち)を設けることは絶対に禁止され、万が一この用水路に異動や故障が生じたり、または新たに施設を設置したりするときは、本市に申し出て許可を得なければ、何事をも出来ない規定としました。

明治14年(1881)7月には、市中の用水町連合会が設けられてこれを管理することとなり、明治26年(1893)9月には、「本県達乙第96号」により用水区会条例が認可されました。当該条例により用水区会が設置され、また、明治29年(1896)10月には用水路管理規則が発令されて、現在の状態までその管理を継続してきたところであります。

しかし、この新水路の開削が始まると、対岸の12の部落では、これが自分たちにとって不利益であると感じ、度々大人数で県庁に押しかけ、苦情を申し立てております。これについて県庁では、荒川流域においてその水を使用することについては、甲府市の多数の人民が飲用に供給されることが最重要であるとし、田を養う灌漑などについては、これに比べれば頗(すこぶ)る軽いものであり、その軽いものの利害で重いものを制約することは、不条理であるとしました。かつ、公領である河川の水は、いかなる事由があっても少数の一部落が私的占有をすべきものではなく、その軽重大小よって取捨斟酌しなければならいと懇諭(こんゆ)しました。また、もし強いて苦情を主張しようとする場合に対しては、人命は田用地に換え難いものであるから、甲府用水と田用水を両立させようと思うのならば、寧(むし)ろこれを機会に畑に換作(転作)するようにとまで説諭したことが、一度や二度ではありませんでした。

こうして、彼らはその我田引水的論鋒を持って県庁に向かったのですが、その都度説諭や叱責を受け、その主張が受け入れられなかったことに憤慨し、水路に向かって種々の妨害を加え、最終的には本川に設けた打張りを破壊する暴挙に出るまでに及び、その暴行者数十人は拘引投獄さることになりました。この事件以後は、暫く鎮静化していましたが、その後旱魃の際には、一般的には用水が欠乏したこともあり、またまた以前に苦情を唱えた部落から水に関する論議が惹起され、県庁に迫ることになりました。県庁は、その用水欠乏は、雨量が少ないという自然の天災であり、飽くまで甲府市用水との関係ではないとする説諭を行いました。これらの事情は、別紙参考書類に少なからず明記されておりますが、当時そのことに関与していた古老の直話(じきわ)に求めても、一点の私見等を挟むようなことはなかったとのことであります。

また、前記の苦情村からの伺いには、古書の類の中に、ところどころに灌漑の余水という文字が記されていることを、今なお唯一の言質として甲府用水の水利権の有無を論じようとしていますが、その文意を熟読玩味し、かつ当時の実況を古老に質(ただ)したところ、これは不条理の議論で県庁に迫っているだけであり、県庁ではその件について煩わしさに堪えられないとのことでありました。

甲府市の用水は、絶対的に新設したものではなく、従来山宮村外3ヶ村で使用していた用水が豊富であり灌漑に用いてもなお余裕があったことから、これを使用したという趣旨であります。これのために対岸下郷の用水に影響するはずはなく、旱魃による渇水時などには、十分にこれを制し、当該官公吏が公平無私な取り計らいをさせようとして提示したものであり、彼等が曲解するような、「灌漑に使用して余りがなければこれを使用できない」とする意味ではありません。

もとより、当初の開削願書にもまたその指令にも何等制限などなく、ことに県庁は、各荒川流域関係の中で、甲府市の用水が第一に重いとし、これに換わるものはないと提示した一事でもわかります。また、一万余円の大資本を投じ勧誘してこれを開設させようとした点からしても、異議者の言うような市の使用権を薄弱させるような道理がないことは確信するところであります。苦情村落においては、渇水時における分水の場合に、甲府市はこれに立会いする権利がないとしていますが、県庁はその分水は区長の当然の職務であり、これに訴えることでこの処分が受けられるとしています。もし、区長の取扱いに不行き届きがある場合は、県の官吏が出張してこれを処分するといっており、その場合、県庁から関係者が召喚させられるときは、毎時主として甲府市が召喚され、または協議していましたが、実際の分水上の件で召集させられたことは極めて僅かでありました。

しかし、大分前のことですが、ある部落などは、必要でもなく、また召集されてもいないのに、大勢の人が出張してきて暴力で我儘な振る舞いをしようと試みたことがあり、他が迷惑したことも少なくないといいます。以前に一度出会ったのですが、分水のために出張するようにと県庁から命令があり、本市の吏員が出張する途中で、騎馬警官の帰途に出会い、その警官から分水の場所にはその村の多数の人々が出張して暴威を振るっており、その場の形勢が不穏であるため、出張を見合わせるようにと注意を受け、事情は解るけれどそのまま引き返したことがあります。しかし、このことで何等権利の消長に関係するようなことはありません。彼らは多数の暴力をもって我儘勝手の行動を敢えて行い、もしこれにより自己の権利であるなどとの慣例になったのならば、これはほとんど論ずる価値などはないものだと思います。

しかし、その後年を経るに従って、ある年の旱魃による減水の際には、用水路が通過する村落または下流村落から配水をしてほしいとの願いが出され、無心の相談に及んでは、分水した事実歴もありました。このように、甲府用水開設以来、格段なる旱魃のため、甲府市及び各村と共に用水の欠乏を感じたことが無かったとはいえませんが、未だかつて甲府市用水のみが豊富で、各村の灌漑用水が欠乏したということはありません。
また、甲府用水の開設以来、実際にこれが原因で大凶作になり、全然収穫ができなかったようなことも聞いておりません。それなのに、甲府市はこれまでに用水の欠乏または不足を感じた場合は、それ相応の対応をしてきており、ことに近年その場合で多く見られるのは、本川源流の減水または引き込み水量が減水するまでにはなっておらず、これは途中の関係村における濫用と漏水とに起因するものが多いと思われます。もとよりこの水路は、権利義務共に全て市に帰属しており、途中の村々においてはただ一定の場所において所定の分量を引用することの外は何等の権利はないものであり、その管理と監督は十分に行き届き、かかる不便を感ずるような理(ことわり)はないはずでありますが、事実は漏水がいたるところにあって、これを防ぐことができず、これは一種の悪例でありますが、一部の者がある目的のために故意に漏水をさせている弊害を生じさせ、頗(すこぶ)る迷惑を感じております。

これは従来の用水が不便で新水道の計画を必要と感ずるようになった一因でもありますが、降雨時の溷濁(こんだく)汚物の混入等は、衛生上その他の関係でも到底従来の用水に甘んじられない場合が迫っており、ここに新式の水道布設がやむを得ないこととなりました。

甲府市民が古来より荒川沿岸にその地位を占め、生存上の必要のためにこの流水を利用して、また時勢の進化と共に新水路を開削して需用を満たしてきたのは、至極当然の処置であり、沿岸村民の恩恵によって分与を得たものではないことは瞭然とした正義であります。なお、かの反対村落が証拠として唱導する「余水云々」の文字がある伺指令の条文に対して、前段で縷陳(るちん)した古老の直話などをも考え、当時の事情に想到してみれば、一層事理は明白であると思います。

すなわち、明治11年(1878)2月16日、中巨摩郡池田村の人民総代である河野有信外1名から、荒川通りの各通水方にお伺いすると題する一つの故障的(異議申し立て的)書面によれば、冒頭において甲府市用水路へ通水する荒川の二ヶ所から水を引入れていることにより、田を涵養する水が涸渇するため、旧飯田村陣場堰から通水するような旧情に戻すような要求が出されたことである。その伺書の第一条は、荒川の「一のまち」からの通水を制限すること、その第二条は、「二のまち」について、甲府市用水は、山宮村外三ヶ村の田への灌漑流水の余水であり、元中下条(現在松嶋村の内)以南各村の田への涵養水に障害がない旨を市中に令達しておいた上で、なおかつ旱魃の節は1日3時間の通水に制限することを要求すること、その第三条は、各「まち張り」の節では、配分方について官吏の立会い指揮を求めること、その第四条は、巡査に各村の耕地を巡視させ、配水に過不足がないことを望むこと、その第五条は、前諸条の趣旨を各市村へ通達することを要求しております。

これに対する同年同月20日の県指令によれば、元来市中の飲用水は、山宮村他三ヶ村で従来引いてきたところの田地灌漑の余水を引き通す趣旨であり、このために他村に損害を与える所以(ゆえん)がないのは勿論のこと、客年(かくねん=去年)などは、非常な旱魃で用水に欠乏を生じて苦しんだのですが、これはごく一般的なことであり、申し立てのような市中用水のために水が欠乏したとは見做しがたいとしました。
かつ飲用水については、市民数千人の生命に関する緊要かつ至当なものであり、その軽重からみても、汚水の混交が免れない旧水路に戻したいなどとは、堪えがたい申し出であり、傍からみた情理おいても、詮議を行うような筋合いのものではなく、篤(とく)と勘弁致すものであるとしています。

もとより、川の水は、その村または市中その他にかかわらず一市一村一己(いっこ)が占有すべきものではないとし、これについて云々と説示をしています。非常な旱魃の節には、県が自ら至当の分水処分を行う旨を指示し、また第二条の市用水の通水時間に制限を設けたいと伺い出るときには、双方の区長が協議の上、障害が起きないように融通し合い、もし協議に不行き届きが出た節には、その旨を申し出るような指令を行いました。

以上の山梨県庁指令は、河川流水の使用に関する情理についての説明がなされており、よく法理に適したものであると思います。しかし、池田村民はこれに満足せず、同年2月27日、更に「荒川通りの配水ご処分方再伺い」を提出しました。その第一条の「二のまち」については、市中用水の儀を兼ねており、ご指令通り山宮村外3ヶ村の田方灌漑流の余水であり、元中下条以南各村の田の涵養水に障害にはならないという旨のご通達を受けました。なおかつまた、旱魃の節に水を融通する件について、互いに障害が起きないようにするための旨を第1区の区長に通知してほしいとの伺いに対して、県庁は市中用水は、最前の開削の節に山宮村外3カ所の田地灌漑の余水を引き通すことの出願のため、元中下条以南の田涵養水に障害があるものとは認めず、かつ旱魃などの節には配水の融通等を取り計らうことについては、区長の当然の職務であり、傍傍(ほうほう)特別にお達しすることではないことと心得て置くようにと云々の指令がありました。

池田村の総代が前後2回伺い出た目的を察すると、甲府市の用水は、山宮村外三ヶ村の田地の灌漑用水の余水であり、元中下条以南各村の田の涵養水に障害があった場合は、通水することができない趣旨の言質を捉えようと望んだものでありますが、県庁はこれに対して、第1次の指令で、山宮村外3ヶ村において、従来引入れていた田地灌漑の余水を引通すようにとの主旨であり、その村落に損害をきたす所以はないとしました。明治10年に用水が欠乏したときには、非常な旱魃でありこれは一般的に雨量が少なかったことが原因で、市中用水のために欠乏したものとは見做しがたいと断定しています。かつ、河川の流水はその村または市中その他にかかわらず、一市町村一己の占有すべきものではないと説明し、その第2次の指令においてもまた同様の文意により、かつ元中下条以南の田の涵養水に障害があるものとは認めないとの指令を行いました。

仮の話ですが、池田村の総代がこのように執拗にも前後2回の伺書を提出したのは、余水という言葉は、先に占有していた使用者があり、その者が優越な使用権を有していたものを、勝手に使用したり、また、その余瀝(よれき)を恩恵的に分与したりすることは、恰(あたか)も、乞食に残飯を与えることに等しい意味なのではないかと解釈させるように企画したものであると想像できます。これに対する県庁の指令は、前記のように荒川流水は豊富であり田地灌漑を行っても余裕綽々であるとし、甲府市は、これを利用して市中に通水したいとの出願であり、田用水に障害を与えようとするものとは認めないと、再三指示を行っていますが、このことは、確かに伺い者に対し、かの企画を挫折に終わらせようとする感がないでもありません。古老の直話は暫く置き、これら条文の上においても、これを見ると、何等優越の権利の承認を与えたものではないと思われます。

このように、甲府市は荒川の水を使用する上においては古い歴史を持っており、従って沿岸各村に比べて寧(むし)ろ優越の権利がある次第であります。今や市の水道設計に異議を唱える松嶋、池田両村が、この伺い指令中の余水という言葉を捉えて、これを自己のために利益があるように解釈し、各沿岸村落において、田地灌漑に用いて余りがある場合の外には甲府市は荒川の水を使用する権利がないものであるがごとく付会(ふかい)しようとしていた件については、県当局の指令で既に一定の従い義務が生じ、松嶋、池田等の各村が荒川の流水を甲府市に先立って取り入れる権利があるということを得られないことはまた明らかなことであります。

これを見れば、これら諸村の或者が、公領である荒川の流水を、恰も自分のみが所有していると考え、無断で水道の計画をしたのは不都合であるなどと異議を挟むものであったとすると、その主張はいかなる権利に基づいているのであろうか。市の用水を禁止し、もしくはこれを制限し、またはある義務を負わせようとするのには、甲府市に比べて優越なる権利がなければなりませんが、これがいずれの時代の、いずれの人から獲得したのかを、また契約よるのか、旧慣にもとづくのかを、彼らは古来の関係書類から調べあげたところ、契約、または旧慣上の優越な権利を獲得していることが認められませんでした。

故に、今日において、甲府市は荒川流水の使用上について何等権利の抑損(よくそん)を受けるようなところは無く、また制限させられるようなこともないと信ずるものでありますが、反対村落においては、市水道の引入口は従来最上の利益がある字一の堰の上位であり、これを容認できないと称していました。しかし、これを一般の法理から論じれば、甲府市が未だかつて荒川の水を使用したことが無いものと仮定しても、流末各村に実害が及ばない限りは、新たに水路を創設してこれを使用することが出来ると言えます。この点に関しては、夙(つと)に大審院の判決例等があります。況(いわん)や本市の荒川流水使用の歴史は、古来より継続しつつ漸次に発達してきたものであります。

而(しこう)して、下流村落の実害の有無に至ったことについては、30有余年前(編注・新水路は明治8年開削、この意見書は明治41年)に、現在の新水路が開削されて以来の経過によって、実証は明らかにできます。これに加えて、水道布設上の水利・使用権として、新設計に必要な所要地は、多く水田を買収するものであるため、その地所においても、幾分所用の水利権を得ることは難しくないものであります。かつまた、反対村落の理由とするところは、新設設計においては、従来の分量よりなお多量の水を使用するかのような疑いがあるようですが、浄水池または配水鉄管内に貯蓄し、必要水量のほか放流または漏洩することもないので、 現在ような途中での漏失が多大で、かつ昼夜間断なく放流しているものに比べれば、非常なる節約を加えることができます。これらの内容を理解すれば、用水経済上の水利関係の村落に対しては、かえって頗る便益を与えるものであれば、憂心(ゆうしん)が忽(たちま)ち解けて、喜色安心するはずであります。なお、単に事実を挙げてこれを証明しますが、従来の用水路は引込み口の幅員7尺であり、新設計の鉄管は口径12吋(インチ)であります。而して、これは数十年の後に人口は今日倍加したときの予備であり、現在はその半分で足りますので、ほとんど数字用いて比較する必要はないものと思われます。

もし、或者の解釈のように、灌漑の余水云々の指令が田地灌漑に用いて余りがないときには、市に引用することはできないという意義について、その文字が後年永久に権利の有無を確認し、社会の歴史も法律の保障も対抗できないものであると仮定すると、これは、甲府市用水の取入口である荒川二のまち以下に位置して取入まちを有する松嶋、池田その他下流の諸村が主として争うべき理由には合致せず、寧ろこれは山宮、羽黒、湯村、塩部等の各部落の主張すべき点であります。しかし、これら諸部落においては、明治8年(1875)の水路開削に関する手続きをとり、爾来、当該用水路の経歴及び実権の所在の一切について無視してはおりませんので、このような暴論は提起されることはないものと思います。

以上のような次第でありますが、甲府市は完全なる水利権を有するものと確認し、これが荒川流水によって水道を設計する所以であり、決して他の権利を侵害し、また反対村落を蔑視しようとする所存など毛頭ございません。

終わりに臨んで、特に一言を申し述べたいのですが、水道計画とは、要するに国家的問題であり、単に営利を目的とする事業と異なることは今更絮説(じょせつ)を必要としないところであり、本市の水道布設もまた決して市民の衛生と財産の保護のみに止まるものではありません。本市は本県首脳の所在地であり、行政司法の諸機関から教育通信商工業の中枢であるのみならず、物資集散の要地であります。これに加えて、皇軍の駐営地となっており、その関係するところは実に重大であると同時に、これら施設の有無は、一市一県の体面のみに止まらないと考え、市民財政上多大なる苦情をも忍びつつ、政府の補助を得ながら、県民の援護をもいただき、この事業の完成を期する所以でありますので、本市は特にことを構えて他と争うようなことは全く望んではいないところであります。
荒川沿岸の反対村落においても互いに公私の区別を明らかにして、利害のあることを考究し、穏当なる情義のもとに交渉解決していただけることを希望するものであります。

明治41年
甲府市長 加藤平四郎

Copyright(C) 2001 by NONAKA Ichini
野中一二事務所
400-0016 山梨県甲府市武田2-11-19
電話 055-254-4040  FAX 055-254-4042

[UP] [戻る] [水道のあゆみ ] [上申書] [裁断書] [意見書] [水道トップページ] [環境レポート]