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甲府の水道

水争いの歴史

甲府市水道局企画経営課 内藤課長補佐により作成された原文によります。Webページ編集は野中一二事務所です。

甲府市水道事業の創設期

1.本市水道事業の水源問題の歴史と市域拡大

時代を遡り明治42年(1909年)、本市は近代上水道の産声を上げるべく、生みの苦しみとも言うべき、まさに過酷な水源問題の呻吟に喘いでいた。明治以降歴史的に、新甲府用水の開削、上水道の創設や拡張等の荒川からの上水道の取水については、沿岸村である荒川左岸の山宮、千塚、上飯田、西青沼、荒川右岸の松島(敷島)、池田等の村々から猛烈な反対運動が展開されていた。

争いの対抗軸は、荒川の水利における本市上水道の水利権の有無である。これをめぐり本市と沿岸村の争いは大きく発展していき、最終的には甲府市長「加藤平四郎」の上申に対し、山梨県知事「熊谷喜一郎」の裁断で決着することとなった。

この内容は、『水道用の取水量に見合った量を、明治45年(1912年)3月までに甲府市が千代田村下帯那地区に貯水池を築造して貯水し、沿岸村へ交付する』というものである。しかし、この貯水池の位置や管理方法で沿岸村の意見が対立し、まとまらなかったため、県は、この貯水池の築造費用を関係村の被害状況によって配分するという再裁断を下し、関係12村に対し相当額が交付された。
このことにより、結果的には本市が沿岸村から「水利権を買う」という形で、長期に渡った上水道の水源問題は決着を見たのである。

市域拡大と水源問題

この上水道創設に向けての数々の困難は、当時唯一の水源である荒川から取水することに対して並々ならぬ決意があったからこそ乗り切れたものであり、この教訓は上記の本市合併の理由にも明確に反映されている。つまり、荒川の水源域であり水源涵養林を保有する能泉、宮本、浄水場の所在地である千代田等は、本市水道事業とまさに密接な関係を有しており、この地域との合併による市域拡大は、歴史的にも諸般の関係からも重要な施策の一つであった。

都市開発事業と市域拡大

さらに本市は、昭和37年(1962年)9月には、隣接の中巨摩郡敷島町、竜王町、田富村、昭和村、玉穂村の2町3カ村とともに、甲府地区として国の「低開発地域工業開発区域」の指定を受け、また、市制75周年の昭和39年(1964年)には、「首都圏市街地開発区域」の指定を受ける段取りとなり、周辺町村との合併ももはや必然の課題となる状況下であった。

その後、昭和41年(1966年)12月には、甲府市、敷島町、竜王町、昭和町、玉穂村、田富町の1市4町1村が首都圏都市開発区域に、また昭和43年(1968年)12月には甲府市都市計画区域として指定され、昭和44年(1969年)には、甲府地区開発推進協議会による事業計画が示された。

これには、事業計画の実施事項として「市町村合併問題の調査」が掲げられ、首都圏の一環として、30万都市を目指し、関係市町村が一致して理想郷実現に邁進すべく、社会・経済・交通等が有機的に一体となった広域的な都市計画を推進する方向が模索されていた。

この計画では、上水道整備計画においても、日量69,400トンを31,300トン拡張整備する予定であったが、この構想と水道事業としての広域圏構想との関連について詳しい資料はない。

とりわけ、甲府市、昭和村、玉穂村が関係した「国母工業団地」造成事業・都市計画事業は、昭和43年(1968年)9月には事業決定され、この早期実施にむけ関係団体があげて首都圏整備委員会に要望を行った。この団地への給水計画は、本市水道事業の水源問題や、玉穂町への給水開始と密接に関係しているが、この給水開始と合併による市域拡大との関連性については定かではない。

2.水源を求める苦悩

(1)荒川取水の困難性

本題の3町への給水開始に至る経過に移る前に、この遠因となる本市水道事業にとって避けては通れない水源問題の歴史を辿らなければならない。

創設通水後においても、普及率の増加、生活水準の向上、定量料金制度による自由使用、工業用水としての使用増加等に伴う給水量の増大、さらには水道管内錆瘤(さびこぶ)による通水能力の低下等により、上水道事業にとっては断水が日常茶飯事として繰り返されていた。このため、増量取水を目指して水源探しの試みは、至上命令となった。

荒川上流宮本村上黒平地内に絶好の水源候補地として命名された扇谷貯水池構想、釜無系の伏流水を玉幡村付近で取水する案、地表水を千代田村などで貯水する案などが俎上に載ったが、ここでも、歴史的な沿岸村からの反対運動が惹起された。

このため、千代田村丸山、敷島村後沢地区に貯水池を作り灌漑用水とする県の調停案が提示され、双方がこれを受け入れ、第1期拡張事業では荒川からの増量取水が実現した。

その後戦災で痛手を受けた本市水道事業は、前述のごとく給水状況の劣悪化の中で懸命な復興を繰り返すと同時に、甲府市の合併構想を受け近隣村への給水を進めることとなった。清潔に滅菌された上水道を普及させることは、合併に際しての条件でもあり、このことが、給水量の逼迫にさらに拍車をかけ、これを解消するための水道事業の拡張は、またしても最重要課題の一つである水源問題に連なっていった。

ここから始まる水源探しこそ、今日の敷島、昭和、玉穂の3町への給水開始に繋がっていく起源である。この長く曲がりくねった道のりを、歯を食いしばって歩んできた先人、先達の歴史を繙く時、水道事業における水源確保が、いかに厳しく苦渋と苦悩に満ちた艱難辛苦であったかが想起される。

本市が、昭和町地内に水源を求めざるを得ない経緯は、荒川水系における沿岸村の歴史的な反対運動に尽きることになる。それでもなお、第2期拡張事業においては、第1期の扇谷ダム構想を捨てきれず、丸山貯水池の嵩上げによる灌漑用水の増量をバーターに計画を慎重に進める予定であったが、昭和26年(1951年)以降、敷島町からは強硬・猛烈な反対運動を受けることとなった。

他の沿岸村については、条件付ながら一定の理解を示したが、敷島町は、その急先鋒として「水道拡張反対期成同盟」なるものを組織し、これに山城村も加わり、一歩も譲らない牙城を築いていた。この牙城を打ち破ることは最早困難であり、この時から本市水道事業は、荒川水系以外にその水源を求めつつ、行く先々で反対に遭遇するまさに無宿放浪の旅を始めたのである。

(2)新たなる水源探し

釜無川、笛吹川の表流水には水利権問題がからんでいるため、地下水または伏流水へ方向をシフトし、釜無川と御勅使川の合流点である御影村で試掘を行う計画をしたが、地元をはじめ田之岡、竜王、玉幡の4カ村の同意が得られず、試掘を放棄するに至った。

次に平等川流域の玉諸地内での試掘では、地下水が自噴したものの、亜硝酸性窒素、塩素イオンなどが多量に検出され、水道原水としては不適となり、この他、池田、千塚での湧水調査でも、飲用に適する水質が得られなかった。

町として理解を示した石和町からの取水計画は、笛吹川沿岸の富士見村、中道町から、さらには山城地区、石和町川中島地区からの反対も受けることとなった。本市は、公平な第三者による揚水試験の結果をもとに、井戸や表流水に影響があるなどの反対理由が杞憂であることを証明したが、感情的反対運動や、取水地点の距離的な問題等により、石和取水を断念するに至った。

(3)新水源の出現

時はすでに昭和31年(1956年)。水源探しの茨の道にも漸く僅かな光明が差し始めていた。昭和村押越と穴田地区の試掘結果から、飲用に適する原水が見つかったのである。折しもこの地区は、「どぶ田」と言われるほどの沼地で、地元でもこの湿田解消を望む声もあり、本市としては、ここを水源予定地とするため、関係村や部落への周知活動と同時に、水源用地、専用道路等の用地買収を開始した。

これに伴い、水源を提供する見返りとして、村役場、学校への給水や灌漑用水の確保について、昭和村と始めての補償契約書を締結した。また、取水地のすぐ北を流れる鎌田川より取水している下流玉穂村及び市内大鎌田地区からも協力を求め、取水のため灌漑用水が減少した場合の補償交渉を行った。

この時点から本市水道事業は、水源を求める苦悩から、補償を求められる苦悩へと転換させられることとなる。そしてこの補償の歴史そのものが、3町への給水開始の歴史へと連なっていくのである。

メールマガジン『野中一二の人は石垣、人は城』
平成14年1月31日・第5号所収

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