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甲府の水道

水争いの歴史−2

甲府市水道局企画経営課 内藤課長補佐により作成された原文によります。Webページ編集は野中一二事務所です。

3町給水と補償事業の経緯

1.昭和町他への補償の始まり

本市水道事業は、昭和31年(1956年)12月9日から昭和33年(1958年)6月15日までの間に、昭和村、玉穂村、大鎌田地区・二川地区対策委員会、年行司まち土木会、西下条地区と延べ13回にも及ぶ補償契約を取り交わし、総額13,347,449円の補償費を支出している。しかし、この時点での補償契約には、3町への給水を示唆するような内容は掲げられていない。各団体間との主な契約内容は以下である。

(1)昭和村に対する補償(7,289,200円)

(2)大鎌田地区に対する補修(3,178,404円)

(3)玉穂村に対する補償(2,879,845円)

2.敷島町、昭和村への給水開始

荒川上流にダムを建設して増量取水し、逼迫した給水事情を回避する予定であった昭和27年(1952年)2月事業認可の第2期拡張工事(昭和28年2月着工〜昭和37年3月竣工)は、幾多の紆余曲折を経た後に、昭和村地内に新水源を求めることができたことにより大幅な変更を余儀なくされた。

建設・厚生の両省への変更申請の後、昭和32年(1957年)3月に事業は認可された。本題である3町への給水開始の原点は、この事業変更計画の理由に一部記載されている。この時給水区域として編入申請したのは、昭和29年(1954年)10月に市域に編入された甲運、玉諸、住吉、山城、大鎌田、二川の各村、さらに、敷島町の一部、及び昭和村を含む地域である。

ここに記載された敷島、昭和の給水区域編入理由は、水源確保について本市と特に関係の深いことを掲げている。水源確保に関係深いとしたのは、この変更事業計画においても、第1水源は既往取水の河川荒川の上流にダムを築造して1日40000トンに増量取水する計画としながらも、その完成が数年先の見込みであることから、計画水量58,000トンに対する不足水量58,000−40,000=18,000トンを昭和村地内の第2水源と補助水源に求めたことである。

つまり、この変更計画においても第1水源となる荒川の沿岸地域敷島町との関係は依然として重要であり、当面の逼迫した水事情に対し、昭和村新水源からの取水も緊急的対策として位置付けられた。本市水道事業における水源問題は、甲府市域外に水源を求めざるを得なかった長い歴史を経て、緊急避難的な措置ではあるが隣接の昭和村新水源にやっとたどり着くことができた。このことにより変更計画の給水区域の見直しも大きく影響し、甲府市域にとどまらず、水源問題に関連する周辺町村の敷島町、昭和村の給水区域編入に発展したものと思われる。

3.更なる増量取水に向けて

昭和村からの緊急取水・給水が始まったものの、昭和35年(1960年)代に入り戦後の経済復興と生活様式の進展により水需要が増大したことから、第2次の拡張計画として、昭和村からの増量取水を申請し、昭和35年(1960年)3月31日に事業認可された。

この理由としては、荒川上流へのダム建設の目処が立たないこと、昭和水源地帯の地下水が予想以上に豊富で地下水位も高く、これ以上の取水にも十分余裕が見られたことなどがある。第2期拡張事業は、荒川からの増量取水は実現できなかったが、第2水源昭和村において清浄豊富な地下水に恵まれ、満10ヶ年の歳月と、総工費6億3000万円の経費をもって、昭和37年(1962年)3月に完成した。

第2期拡張事業の直後、本市水道事業としては、甲府市を中心とした広域的な甲府圏構想との整合性を図り、広域圏の水需要に応じる上水道計画として、第3期拡張事業が前事業管理者の木島繁氏により立案された。これは、甲府市、敷島町、竜王町、昭和村、田富町、玉穂村、双葉町の一部を甲府圏とする構想で、その後、昭和41年(1966年)12月に首都圏整備法に基づいて「甲府都市開発地域」として指定を受けた地域とは、双葉町の一部が異なるだけのものであった。

行政区域を、広域圏として発展させていく甲府市の構想に合わせて、給水区域の広域化を図っていくという案は、時代の要請であったのかもしれないが、やはりこの計画においても、給水区域は敷島町の一部と昭和村の全域に限定せざるを得ず、目標年次を昭和52年(1977年)、給水人口を32万5000人とした広域圏構想は、22万7000人に大きく縮小され、一日最大給水量を100,700トンとした。

この理由としては、やはり水源問題として荒川水系の第1水源からの増量取水が現行では如何ともしがたく、広域圏行政構想に合わせ「水源をいかに求めていくか」という給水構想には、現実問題の違いが歴然としてあったと思われる。この第3期拡張事業計画においても、既得取水量は、第1水源の平瀬水源については日量26,400トンを維持せざるを得ず、これを打開するには、関係町村との折衝による解決を待たなければならなかった。

それにしても、今回記載の補償については「(2)大鎌田地区」は現在甲府市ですが甲府圏域では「補償井戸」と言う名前など、数々残っているものがあります。一体何がこれほどまでの熱意を駆り立てたのか、どこか中東で仕事をしていた「オイルマン」たちの物語に近いものがあるような気がいたします。
また、当時(昭和31年頃)ラーメン一杯が20円程度ですから、貨幣価値は大体30倍〜50倍かな、後は皆様掛け算等なさってください。

メールマガジン『野中一二の人は石垣、人は城』
平成14年2月8日・第8号所収

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