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100年で考える都市計画

都市再生に向けて

4・再生に必要な教育

過去の都市計画を見ると(特に明治以降)、国策によって「富国強兵」が叫ばれ、国全体がこの方向に向かって突き進んで言ったことはよく理解できる事であろう。其処では近代化という号令のもとに農村部から多くの労働力を太平洋岸ベルト地帯に集結させ、工業地帯という都市部を形成することが最優先で行われた。工業が多くの人手を必要とした事から生まれた人口の大移動であったが、それは単純に労働力の大移動であり、農村部では労働力不足を補うため、家庭の主婦に過剰な労働を強いる結果となって行ったのである。

結果として女性の地位低下が著しく、時の先進ヨーロッパなどの国々と決定的に違ってしまう事となった。いわゆる教育の退化であり、その後の時代に計り知れない影響を及ぼすこととなっている(わが国古代にはヨーロッパでは見られないような女性による文学などの芸術が隆盛であった、勿論明治以降にも文壇、画壇で活躍し、現在にすばらしい作品を残している女流文化人もいるのだが)。このような基本教育の後退は、明治政府が推進した全国の町に学校を作ると言う計画を以ってしても、解消するにはかなりの時間がかかってしまったのである。そしてこの事が母から子へと教えられる精神教育の面でも大きく影を落とし、一朝一夕では解消することの出来ない日本人の教育的基本構造となってしまったのであろう。

労働力が都会に集まる現象で爆発的な人口増加を見た東京では、関東大震災が発生し、都市機能に致命的な打撃を受けることとなったのだが、ここで非常に興味深い事があった。「大風呂敷」とあだなされた当時の内務大臣後藤新平が、この震災の復興に対して30億円と言う巨費の帝都復興計画という首都再建計画を作り上げたのだが、議会等の反対等により予算規模とも縮小され、幹線道路についても予定した幅員の縮小と言う憂き目にあってしまったと言われている。それにしても現在の内堀通り、霞ヶ関通り、靖国通り、青山通り、昭和通りなどの計画道路はこのときに決められた物であるから、その基となった後藤新平が思った道路(一説には70間、126メートルといわれている)とは一体どの程度の幅があったのだろうか(ちなみに甲府市においても、戦災復興計画の当初は駅前を南北に走る通称「平和通り」は当初計画では幅員50メートルであったそうだが、周囲の猛反対から現在の36メートルに変更せざるを得なかったそうである。その時中央から着任した担当者は、上司から『甲府という町は丁度東京の隠れ家に相当する町だ、空襲で大きな被害が出てはいるがこの町をそんな気持ちで作り変えて来い』と言い渡されたそうである)。ここでの興味深い事柄とは「時の内務大臣が作った計画が議会等での反対で縮小されてしまった」という事、この事はきちんと議会が機能している証拠ではなかろうか。同時に当時の一般的な意見の方向性と、「風呂敷後藤」と言われた後藤新平の100年先の都市計画を見通していた慧眼に対する視点の開きが垣間見えてくるのではないか、という事である。それにしてもこの大災害を契機に「幹線道路網の整備」・「都市公園」の設置が始まり、被災地区の「区画整理」が開始されたことは、わが国にとって都市防災と言う新たな考えがスタートすることとなったエポックメイクである。

明治以降「お上」の命令は絶対であった。そのお上が行う事業についてもやはり絶対であった。つまり今までは都市計画についても、お上からの指示・指導に基づいて行われてきていたのだ。「国策」と言う言葉に対して、なんでも右へならえという教育が染み付いてしまっていたのではないだろうか。そのことによる弊害により住環境・生活環境までもが行政の意思によってしまっていたのではないか。

人口増加対策として行われてきた住宅団地の建設なども、ここで言う都市計画上発生してきた物である。そして人口急増地帯では、人々はこぞってそこに安住の地を求めていったのである。しかし一定のエリア内での計画についてその後を検証してみると、同時急増した勤労世帯住民は一斉に高齢化が進行し、それぞれの思惑が絡み合う中で建替えなどもままならず、場合によっては交通手段を失った人々によって見捨てられてしまうのである。自力で移動できるうちは良いとしても、ひとたびその移動手段を放棄してしまうと通常の暮らしは不便この上ない物となってしまう。また、エレベーターの設置がない中層階の集合住宅については、下層階については入居が可能だとしても、上部は一向に入居者が現れないと言う話も耳にする(もっともパリではこのような住宅にエレベーター設備などなく、そのことが老人たちの足を丈夫にすることに大いに役立っているという)。

計画がなく、一定の規制だけが先行してしまった地区についても同様の事態が散見できる。規制の目をくぐることで安価で提供できるいわゆる「虫食い開発」が進行し、きちんとしたインフラ整備が追いつかない地区においては、今後20年、30年と言う年月が経過したときこれらの地区はどうなってしまうのか。(こういった実例は何も日本独特のものではない。アメリカでは「砂漠の中に理想郷を」と言う理念からはじまった新都市計画があるが、ここでも高齢化に対して有効な手立ては見出していない。其処では日常の生活を快適に過ごそうとするあまり、一軒あたりの面積を広く取り、隣地との境が車での移動を前提に作られてしまった。そして到底歩いては暮らしが成り立たないという弊害が起きてしまったのだ。高年齢化というのは移動手段を極端に制限してしまうこと。この事によって、日常のいわゆる衣・食・住に基本的な支障をきたす事から始まってしまうからである

しかしここにきて市民の間に数々の情報が入ることによって「自らの街は自らが作ってゆかねばいけないんだ」と言う機運が高まってきたのではないだろうか。この事は昨今の大型国策事業に対して起きている反対運動や、事業の見直しと言った数々の事例を検証することで一定の理解が得られるのである。当然それなりの危険をはらんだ展開も予想できるのだが、それらの危険予知も含め、住民の主体的な意思による行動が端緒となることから、近年はPIPublic Involvement、公共政策・事業の推進にあたっての住民参加の一手法。関係者に対して計画当初から情報を提供し、意見をフィードバックして計画内容を改善、合意形成を進める手法。)といわれる手法のように浸透しつつある。ここで言う危険とは「無知がゆえに巻き込まれることの怖さ」という事であり、PIと言っても日常この町の在り方について一定の議論を積み重ねている分については良いのだが、とかく足元の事例に対して要望を行い要請を繰り返している住民にとっては長期展望に立った解決策を見出すことは非常に難しいのではないか。

ここで大切なのが「市民自らが学び習得するための教育」である(政治家や行政が上から教育するのでは無く、自らが、自らの手で街を作り上げてゆくための自学自習を示している。行政ははそれを支援すればよい、そしてその為の情報をどしどし公開してゆかねばならない)。それは従来型の依存から脱却できるだけの知識を学ぶことであり、権利の主張と義務の履行を果たし、且つまた自らの進む方向をしっかりと見据えてゆくと言う教育ではないか。この基本こそこれからの都市間競争に打ち勝ち、そして継続して成長をすることが出来る都市作りにとって大切なことと言えるのである。この基本の学習・教育・啓蒙が世代、年代を超越した広い意味での教育であるべきで、都市の成長を支える目に見えない原動力となる事を十分理解する必要があると言える。

続く

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