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府中五山遊山記

能成寺(のうじょうじ)

長禅寺〜能成寺。およそ15分

長禅寺山門を後にして再び中央線に沿って石和方面に向かいます。途中線路が三本平行して走っていますが、一番南側の一本は「単線の身延線」です。坂を登った辺りに「金手駅」がありますからそのことが良くわかります。まだまだ道沿いに真っ直ぐ向かい、左手に浄土宗来迎寺を見ながらその道を突き当たります。まだ右には中央線の踏み切りが見えています、この踏み切りの名前となったのが誓願寺で左手にその山門が見えていますから一路山門に向かって進みましょう。なんだか袋小路に入ってゆくような錯覚を覚えますが大丈夫、山門から誓願寺の塀を巻き込むように左に向かい、次の四つ角に見える場所左が能成寺入り口となっています。ここでは気さくな住職さんが時間さえあればいろいろお話していただけます。(地図・長禅寺〜能成寺

能成寺
能成寺
能成寺
能成寺
能成寺
能成寺の説明
能成寺
能成寺に飾ってある江戸時代の地図
能成寺
地図

ここで赤く色がついているところが神社仏閣、つまり街の周囲に追いやられているわけです。なぜかと言うと江戸時代になったとはいえまだまだ一つの城だけだと守りに対してあまり強くない、そこで寺を作り城の守りを強固にしたということです。 このお寺の住職さんの話によると「能成寺」は以前は東青沼(現在の穴切・宝あたり)にあって、江戸に変わった頃今の地に移されたのではないかと仰っています。

なぜ五山が均等に甲府の町に配置されていなかったのか。これについては武田の時代もやはり外敵の進入を一時的にお寺で防いだためでしょう。
その頃はいわゆる武田神社から見て南の方角、そして南西の方角には余り人家がなかった。そして隠れる場所もなかったので兵隊はすぐに見つかってしまう。そう考えるのが良いのではないでしょうか。いわゆる甲府から見た石和方面に人口が集中していたのでしょう。そして武田信虎は、石和町と甲府市の境辺り、今の平等川のふちに住居を構えていたのです。そして平時はそこで川の運行にかかわる税金を徴収、そして戦時はその裏山の大蔵経師山に城を構えて戦ったと言われていますから、やはりこちらからの兵が気になるところでしょうね。

能成寺については、信玄の四代前の武田信守の墓がありあまり関係は深くないがなぜ府中五山になったのかもちょっと疑問が残りますね。だから移動説も正しいのかも。

臨済宗妙心寺派の名寺。信玄の時代になって能成寺は祈願所として定林山能成護国禅寺となり、甲府に移った。1945(昭和20)年の空襲で本堂、庫裏を被災し、その後、復興した。本尊阿弥陀如来。参道の右側に宿竜地」の大きな碑石が立ち、そこに蓮池と老松があり、左側に芭蕉句碑「名月や池をめぐりて夜もすがら」刻みこまれてある。
能成寺ホームページ
能成寺
能成寺の石垣
能成寺
能成寺の石垣

このお寺の石垣は甲府城を築城した頃に作られたものだそうです。だから石垣の組み方が「アノウ組み」(穴太)と漢字では書いた記憶がありますが。しかも、実際その石垣を見てみると石の大きさもちょうどその頃のものでしょう、このことはとっても大切なのです。石は次第に時代とともに小さくなってゆくのです、そして本当のアノウ積みであるならば、上に向かってゆるいカーブを描いて反っている。今の甲府城の修理ではそれが出ていませんね、残念です。

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