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街づくりレポート

馬籠宿・妻籠宿

No.20071115

12月議会で昇仙峡のことを取り上げ質問する予定になっている。しかしお土産品店の再構築や、昇仙峡地域全体の再生に対してどのように取り組むべきかという肝心の部分が少し欠けているのではと思い、岐阜県中津川市馬籠宿・長野県南木曽町妻籠宿を訪ねてみた。電車でぎりぎり日帰りのコースではあるが、思い立ったら吉日と言う事でさっそく出かけてみる事にした。

馬籠宿

馬籠宿
にぎわう馬籠宿

そもそも中山道は江戸日本橋を起点とし京都まで132里(約530km)の道程で、ここには69の宿場が設けられていた。本州の中部山岳地帯を縦断し、木曽を通っていたことから別名を「木曽路」とも「木曽街道」とも呼ばれていた。

中山道は東海道と共に江戸と京都を結ぶ大動脈であった。東海道の126里・53宿に比べて遠回りではあったが、東海道は大井川の川留めで旅の行く手を遮られたり、桑名一宮間の船旅で海難の危険が伴ったのに対し、中山道の旅にはこうした惧れがなかったことから、京都から江戸に向かう姫君たちはほとんど中山道を選んだ。しかし中山道も決して安全な道ばかりではなく、とりわけ馬籠宿と落合宿の間にある十曲峠は険しさで旅人をはばみ、木曽の桟(かけはし)は危険な箇所として恐れられていた。いずれの旅も実際は危険なものであったのだろう、とても現在では想像することは出来ない。

中山道69宿のうち木曾谷には11の宿場が置かれており、ここ馬籠宿は43番目になる。江戸からの距離は83里(333km)と記載してあった。

馬籠の南側の入り口に道路を直角に二度折り曲げた所がある。この部分の道路の山手側は切り土になっていて、城郭建築の桝形に摸して石垣を築いてあったことから、ここを「桝形」と言うのだそうだ。甲府でも見られるように要塞としてとらえた都市には直線道路は敵の侵入を考えるとふさわしくないという事なのだろう、宿場も軍事的な目的をもって作られていた事を、この桝形が示してくれている。

町並みはここの地形を上手に利用しつつ築き上げられた歴史観を損なうことなく仕上がっており、傾斜地の利用の手本のような石積みや、水車によって生活の動力を得ていたなど実に興味深い物がある。現代の冷たい感じのする都市の構造とは異なり、一定の範囲で調和の取れた集落は人としての安らぎを与えてくれる空間として実に巧みに演出されている。

馬籠宿
藤村記念館(これは島崎藤村)

平日だと言うのに一体どこから来たのだろうかと驚くぐらいの観光客で一帯が埋め尽くされていた。たまたま島崎藤村記念館が60回目の落成記念日という事でその記念行事で、「瀬戸内寂聴さん」の講演が元、神坂小学校の体育館で行われるという日だったからなのか、しかしその講演を目当ての方は今ここにはいないはずだが。晩秋の日を柔らかく受けた坂道からは、熟年の女性の笑い声があちらこちらから聞こえてきていた。

ここには馬籠住民憲章の制定と言う大きな出来事があった。1970年(昭和45年)頃から馬籠は俗化が急速に進行しはじめたと言う、つまり馬籠外部からの企業の進出が表面化してきたのだ。それに対して町並みの保存運動には無関心だった人々も危機感を抱き、外部からの企業進出については事態が急を要する事態になってきたことから、昭和47年4月、観光協会を中心に「神坂地区保存に関する決議」が行われた。

この決定を地元では住民憲章と呼び、この決定の実行母体として1972年(昭和47年)に保存委員会が発足し住民憲章を守るために監視の目を光らせることとなった。結果として土地ブローカーの活動阻止、露店商の敗訴、外部資本の進出阻止などに多くの実績を挙げ、野放しだった営業内容や家屋の改造などに厳しい指導と監視をしたとしている。さらに個々の家屋の改造には具体的なアドバイスが必要ということから、1974年(昭和49年)芸大出身の芸術家・山本勝巳氏を招いて宿場に似合った家並みのファサードについて指導を受けた事が、現在のこの街並みの完成に大きく貢献しているのだろう。

馬籠宿
馬籠桝形

この他にも住民自らが道路上の電柱をすべて家屋裏に移転させ表からは見えないよう配慮したり、自動販売機やテレビのアンテナと言った物まで通常の視線から遠ざける工夫を施したと言うからその力の入れ具合が理解できるというものである。

やはり住民自らの手で街を作るという努力をせずにその成果としての果実は戴く事は出来ないのだ。

妻籠宿

中山道69宿のうち江戸から数えて42番目となる妻籠宿は、中山道と伊那街道が交叉する交通の要衝として古くから賑わいをみせていたと記されている。時代が明治になると鉄道(現在の中央西線)や道路(国道19号線)が新たに造られると、宿場としての機能を失った妻籠宿は衰退の一途をたどってゆく事となった。

その後高度経済成長の代償として数々の文化遺産が消滅してゆく中にあって、心のゆとりを取り戻したいと願う人々が次第に増えて行き、江戸時代の宿場の姿を色濃く残している町並みが見直され、全国に先駆けて町並み保存運動が起こった。

妻籠の人たちは町並みを守るために家や土地を「売らない・貸さない・壊さない」という3原則をつくり、ここで生活しながら、江戸時代の町並みという貴重な財産を後世に伝えている。

妻籠宿
妻籠宿

この宿でもちょうど復元保存された中心近くに桝形が残り、前出馬籠宿と同様に砦としての機能も併せて果たしていたようである。

実に対照的であったのが馬籠宿で見られなかった土塀と石置屋根がしっかりと特徴的に残っていて印象的であった、そのもっとも大きなものは平成7年に復元された「妻籠宿本陣(南木曽町博物館)」であり、馬籠宿に生まれた島崎藤村の母親の生家としても有名である。

ここを中心にして宿内には重要文化財がそれこそゴロゴロとあり、どれを取って見ても実に興味深いものである。同時に現在でもここには生活している空間がそのままあり、それがこの宿に命を吹き込んでいると言いきっても良いのではと思える。しっかりと3原則が生き続けている好事例であり、住民の郷土への愛着と誇りがここでもしっかりと伝わってくる。

妻籠宿
妻籠の民芸品店
妻籠宿
妻籠本陣

以上簡単だが2つの宿を紹介させて頂いたのだが、この両宿の間には馬籠峠と言う難所があり、その山中には往時の中山道の石畳が復元保存されている。

馬籠宿
整備された中山道

そして多くの観光客が、ただ見て回るだけでなく、この両宿の間を歩いているのには驚かされた。東海自然歩道の一部として復元保存されているのだが、途中の道標などにも十分な配慮がなされ迷うことなくたどり着けるように工夫されている。自然歩道と言ってもこの間はずいぶん通行者が多いのだろう、途中にトイレもきちんと作られきれいに清掃されていることからも観光客への心からのもてなしと言う気持ちが伝わってくるのだ。

ちなみに馬籠宿から妻籠宿迄は途中馬籠峠(801m)をピークにほぼ400mの標高差と、8kmと言う道中であり、ゆっくりとした歩行でおよそ4時間と言う説明もあり、1日かけての両宿散策にはもってこいの距離ではないかと思える。

なんとかこの作りを昇仙峡にあてはめる事は出来ないものかと、帰りの道中頭はいっぱいであった。

(新しいページ、「昇仙峡をきれいにする会社」も準備中です)

 

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