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「野中一二」の言いたい放題

2007年12月16日 神とは

巷はクリスマスだの、新年だのとにぎわいを見せ始めているようだ。
別に私が格別の何かを持っているとか言うのではないが、確かにこの季節は締めの季節と言う事もありいろいろと慌しいのは事実である。そんな折ふと感じた事なのだが、「一体神とは何ぞ」と言う疑問であった。

一般にキリストは神ではなく、神の使者であった。あるいは、釈迦は神ではなく仏教を人々にわかりやすく伝える使者であった。ムハマンドはイスラムの教えをつたえ、全知全能の神に近付く方法を説いた。などそれぞれの方がたの上には無形骸の「神」と呼ばれる存在がいたとされている。

一体その存在とは何かという問題に対して、神学者や様々な述者が過去からこの問題に対して取り組んでいる。しかし最近ではどうもこの存在を否定してかかる人々が増えつつあるようだ。「神様の罰が当たる」なんて言う言葉は子供たちの間では死語になりつつあるようだ。「どこかで神様が見ているよ」などと言おうものならじゃあ「証明して見せて」とか「ビデオでもいいよ」などと言われてしまい、返す言葉も見つからない。

しかし混沌とした現代のような社会でこそどこかに最上の神がいると言った気持ちでいる事が望ましいと感じている。何かの判断で困った時あるいは現在の自分ではどうしようもない時など、「いいよ神さんがどこかで見ているよ」と言ったおおらかな気持ちになる事も出来るし、自分を励ますこともできるからである。

そこへ行くと日本における神の存在は少し違っているようだ。八百万の神々と言われているわが国ではいろいろな物に神が姿を変えて宿り、あるいはさまざまな神々がこの国の国体をなしていると考えられている。ちょっと我が家を見ても入口には悪霊退散の神がいる、そして台所には台所の神がいて、特に火を守ってくれている。神棚には守護神がいてその両脇に地域の神々がいる、トイレには便所神と言う神様がいるし、東西南北木火土金水にはそれぞれの神がいる。

南から見た甲府市

唯一神では味わえないような日常の出来事がしっかり神々と繋がって居るのである。最近の私はこのようなスタンスでいられることがむしろ心地よい事が多い、と言うより何があっても何をやってもそこには神がしっかりと居ると言う事なのではないだろうか。つまり日常神と同居して暮らしていると言う事なのだろうか。

それにしても人は皆神になれると言う事を聞いた。それには日常を鏡に見立て我を捨てればよいと言う事らしい、できるものならやってみては如何か。

神々しいような八ヶ岳を見ているうちに、ふとこんな気持ちになってしまった。

メールマガジン『野中一二の人は石垣、人は城』 平成19年12月16日・第181号所収

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