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「野中一二」の言いたい放題

2009年1月22日 工事が進む藤村記念館

甲府駅北口では、昨年来白い大きなハコが気になっていますが中はどのように進ん でいるのでしょうか。

正式名称は「旧睦沢学校校舎」です。

もとはと言えば明治初期、旧敷島町(現在の甲斐市)睦沢に建てられた学校でしたが、昭和39(1964)年から始まった再復旧工事によって甲府市古府中町の武田神社境内に移築再建されたものでした。当時の野口二郎、大沢伊三郎といった甲府商工会議所の有志がポケットマネーを出し合って買い取ったという曰くつきの建物でした。それ以降昭和47(1972)年の屋根葺き替え工事、昭和59(1984)年の外壁補修工事などを繰り返してきたのでしたが、その建物の位置についても非常に難しい問題を抱えていた建物だったのです。

簡単に言ってしまえば「文化財の上に文化財が乗っている」と言う事で、つまり武田神社は国が指定する武田氏館跡遺跡、その上に同じく国が指定する旧睦沢学校が乗っているという不思議な関係だったのです。

工事が進む藤村記念館
修復された柱、刻印は「平成19年修補」

なぜ甲府駅周辺が適地だったのか。

今回の移転は「多くの人々に文化財である素晴らしい藤村式の建物を見ていただきたい」という私の気持ちも大いに働いたのですが、それ以上に明治10(1877)年、イギリスの公使アーネストサトウ(この方、純粋なイギリス人です)と言う方が書いた日記によると「甲府城の周りはおそらく人口を考えたら日本でいちばん西洋の模倣建築が多い土地だろう、それは官公庁や学校、病院、そして民間の工場に至る建物がこの様式でたてられているすばらしい街だ」としているのです。
だとすれば北口のモニュメントとしては最適と考え、移転誘致に努力させていただいたと言う事です。

工事は骨組みの組み立てと基礎部分の工事がほぼ終了、特に梁など修復部材には「平成19年修補」と言う焼印を押すなど、以前の在来工法そのままで行われていました。そして武田神社境内で解体された部材にはすべて木札が張り付けられていて、どこのどの部分の材料であるか一目了然としているのです。

その上以前睦沢で解体されたときに打ち付けた木札がそのまま残っていて、部材によっては2枚の木札がついたまま組み立てが進んでいました。その上柱など一部が使えない物でも継ぎ足し木組みと言う方法で極力新築当時の部材を使用するなど、さすがに文化財の修復となると大変な苦労がついてまとうんだなと感心です。甲府市中心部では先の戦災によってその76パーセントが消失してしまった現状や、私の良く言う甲府市は破壊の繰り返しと言う事でこのような修復作業はなかなかお目にかかれません。まして相手が文化財で原状復帰が目的となれば、なおのこと一層大変な作業が続いているようです。

工事が進む藤村記念館
新旧の名札
これによってどこの部材か判断できます

当然今から葺かれる屋根についても「土家葺き」と言う方法によって葺かれる様です、これは板張りの上に小さい板を敷き詰め、土を置いてから瓦を敷き詰めるという在来手法で、歴史を遡りそのままの手法で再現するのだそうです。

しかし、建築基準法の耐震基準はないものの、文化庁が定める一定の耐震基準を満たすため、今回は新たに斜交いの板を組み込むほか、一部鉄骨による補強も行うということです。本日は最上部の鐘楼まで登って見下ろすこともできましたが、この景色は屋根を張ったらおしまいとなります。ちなみに3月中旬には甲府市教育委員会による視察も計画されているようです、3月号の広報を楽しみにしてください。

工事が進む藤村記念館
3階鐘楼部分から地下までの骨組
工事が進む藤村記念館
真ん中の2本が耐震補強用梁

ちなみに色については以前の馴染んだ色の再現ではなく、明治時代に作られた色の再現ですからずいぶんシックな感じでまとまりそうです。
武田神社にあった時の色については「野中一二の活動報告 2007年7月号」を参考にしてください。チラシのPDFファイル「駅周辺整備の状況その1 藤村記念館移築」(PDFファイル 641KB)もあります。

完成が待ち遠しいですね。

メールマガジン『野中一二の人は石垣、人は城』 平成21年01月22日・第198号所収

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