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「野中一二」の言いたい放題

2009年4月16日 愛宕山は「ドン山」と呼ばれていた

ひょんなことから愛宕山にあった「ドン」について調べてみた。

実に深い意味がある調査ができ、久しぶりにわくわくした1週間を送ることができた。そもそもこの「ドン」と言うのは時を知らせる物であるとは知っていたが、それがいったいなんだったのだろうか。ドンと言うくらいだから太鼓ではないかと思っていたが、それが鐘であると言う事は想像できなかった。しかもこの「ドン」と言うのは実は空砲だったのがなぜ鐘になったのだろうか、その程度の知識しかない小生にとってなんだこれはという深い歴史を感じさせる結末になろうとは。

愛宕山の「ドン」
愛宕山の「ドン」

今回のメルマガは2回に分けてそのことをお伝えしたいと思う。

時代を逆回転させ、昭和18年までさかのぼろう。戦争が一段と厳しさを迎える中で「金属供出」と言う忌まわしい合言葉によって、愛宕山にあった正午を知らせる「ドン」は取り去られ、今では跡形もなくなってしまっている場所こそこの「ドン」があった場所である。

大正2年に発行された甲府市全図によると、その場所は「午砲所」と書き記され、場所は長禅寺山(今の愛宕山南部)にあって、甲府市上下水道局中区配水地の南西、長禅寺の北部にあたる場所で適度に平らな場所であった。

一体いつからこの場所で空砲を撃ち、時を知らせたのだろうか。調査の結果明治5年ということがわかった、これは日本全体で従来の太陰暦から現在の太陽暦への変更があり、時の管理は政府によってなされると言う事からこの「ドン」が誕生することとなったのである。

このときの砲手は初代が野村永五郎、二代目が山本光明と言う事も甲府90年写真集に記載されているのだが、この冊子は現在の甲府市役所に1冊しか残っておらず、甲府市が市制施工90年(現在は119年)の折に発行され、どうやら市民などに配布されたらしい。

それ以前はいったいどのような状態だったのだろう、次号お楽しみにしてください。目下の予定では数日後にはお届けできると思います。

 

メールマガジン『野中一二の人は石垣、人は城』 平成21年04月16日・第202号所収

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