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「野中一二」の言いたい放題

2009年4月18日 ドンの前はゴ〜ンだった−2

明治4年以前は時を知らせる物はどのような形だったのだろう。

時の鐘
「時の鐘」

それが「時の鐘」と言われて広く市民に親しまれていた鐘の音だと言うことがわかるにはそれほど時間がかからなかった。そもそもは仏教に由来する寺院の梵鐘がもとで、明六つ(午前6時)、昼九つ(正午)、暮六つ(午後6時)、に撞いたものだった。甲府城下では柳沢氏領有中の宝永五年(1708年)には「時之太鼓」が打たれるようになり、市中では横近習町の歓喜院の梵鐘で半世紀ほど撞かれていたものが、太鼓と同じ頃愛宕山西斜面(現在の境町踏切を少し登ったところにある駐車場あたり)に鐘撞堂を小判6両で普請したという記載が残っている。

このころの鐘は2時間おきに一日中時を知らせ、それによって町の木戸の開閉(防犯対策として)、農作業の開始、城下の各種行事への参加、銭湯の開店閉店など、およそ日常の事はすべてこの鐘の音で判断されて生活が行われていたようだ。

当然火災発生などにはその撞きかたを変えて知らしめ、用水の農家と町中の取り分についてもこの鐘の時間で振り分けたとされている。維持については市中の各町内会へ分担金と言う形で請求が回り、常時3人が交代でこの梵鐘の管理に当たるなど、城下にあっては一つの大きな行政の流れとして日常をこの鐘に頼っていたとされている。

甲府市中では少なくとも4か所のこのような梵鐘があったとされているのだが、その存在が現在確認できるのはこの愛宕山の時の鐘の他、現在の天神町にある「法性山玄法院」の梵鐘だけであり、その写真は玄法院1か所のものだけである。しかもここには未だその鐘撞堂のイラスト(鳥瞰図)と礎石が残っており、愛宕山の鐘撞堂を模写して作ったとされるその大きさは底辺が3間角、高さ5丈(5.4メートル角、高さ15メートル)と言う大がかりなものであった。

玄法院の鐘はその鋳造を江戸へ発注し、当時の住職が剣術の達人であったことか ら甲府城内の剣術指南役を務めた折見染められて嫁いできた武士の娘が持参金として持ってきた「甲州金」両手に一抱えを梵鐘に鋳込んでいたため、その音色は素晴らしく遠くまで響いたと伝えられ、運搬には江戸から船を使い富士川水運を登り鰍沢で下した後、馬車によって運びこまれた。また5丈(15メートル)もの材木は、玄法院まで運びこむのに大変苦労し、道の角にある家を潰して運び込んだとされている。しかし、やはりこの鐘についても昭和18年の金物供出でその命を失っている。この鐘の位置から甲府城下の町の広がりがおよそ推計できるもので、南部の残り二つの鐘楼についても古地図などで確認できるかもしれない。

このような時代背景とともに成長してきた甲府市は、これからもこれらの時を通りすぎて来た事を忘れてはならない。

メールマガジン『野中一二の人は石垣、人は城』 平成21年04月18日・第203号所収

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